雑   感

広島 千林寺に立つ
思うことがあり、広島県御調郡久井町にある千林寺に行った。千林寺は声明の大家であり、高野山のために一生涯を尽くされた高野山親王院先住、中川善教前官が声明受伝いただいた高橋圓隆大和尚の住持された寺である。千林寺は、のどかな農村の中にあり、舗装されていないあぜ道のような参道を上りきった小高いところにあった。夜になれば街燈らしきものは見当たらず、星が手でつかめるような高さに感じる。
千林寺に立ち、寺に続く参道を目で追いながら、若かりし頃の中川前官が圓隆大和尚の法を目指しこの道を歩いて通われたことを思った時、熱いものが胸にこみあげた。中川前官が圓隆大和尚から南山進流声明皆伝なったのは昭和四年十二月七日である。声明を習うためには最低五年の年月は必要とされるので、中川前官が千林寺に通われたのは大正後期から昭和初期にかけてのことであろう。大正から昭和の時代にかけての千林寺近辺は、現在のものよりも整備されていなかったことは確実である。どこかの駅まで汽車で乗り継がれ、荷物を背負ってここまで歩いて来られたものであろうか。通うだけでもかなりの時間、いや、もしかすれば数日かかったかもしれない。法を求めるということは、命がけの苦労をはらうという数々の伝説があるように、中川前官も大変なご苦労をされての声明受伝であったことはまちがいない。


声明との出会い
私が声明と出会ったのは昭和五十三年四月である。僧侶になるために高野山大学に入学した。三宝院の学生として寺を手伝いながらの生活であった。大学では密教学科を専攻したので、そのカリキュラムの中に「声明」を選択しなければならなかった。たしか、二人の先生がおられたと思うが、先輩のすすめもあって井上光紹先生にお世話になった。入学した当初、この世の中のお経は“般若心経”しかないと思っていたので、三宝院での朝勤行の折、始めて“理趣経”を読まされたとき目がまわりそうになった。ましてや声明となると、なにがなんだかさっぱり分からない。五線譜すらはっきりと読むことができないレベルの人間が、あのややこしい声明の譜など読めるわけがなかった。朝勤行のときにはもちろん声明を使う。譜が読めないのだから、師匠や先輩が唱えられる音を耳で聞きながら恐る恐る発声していたことを覚えている。また大学の授業にしても井上先生の説明に、目を白黒させながら聞いたことを思い出す。ただ、井上先生の唱えられる声明が何ともいえない美しい声であったことが印象深い。
高野山での生活も慣れてきたころ、声明の授業中に井上先生から話があった。学祭の一環行事として大学関係物故者追悼法会が高野山金堂にて毎年行われるが、今年はその職衆としてこのクラスから数人出てもらうことになったというのだ。大勢いる中の数人なので、違う人があたるだろうと思っていると先生が私を指名された。井上先生は三宝院住職と交流があり、三宝院の学生であるということも関係して恐らく私を指名されたのであろう。ともかく、生れてはじめて大法会に参加させてもらった。
金堂は大変大きなお堂である。私たち職衆のまわりを大勢の大学関係者が取り囲み、大勢の目は職衆に注がれる。大法会という独特な雰囲気の中で襲い掛かるプレッシャーは、今まで体験したことがないものであった。私の役は「散花」であった。私のうしろには格子がある。その格子越しに先輩が立ち、私を見守ってくれていたが、足がガクガクして震えがとまらない。
いよいよ法会がはじまった。まず、法要の鐘がなり唄師が云何唄を唱える。二句目にて作法があり、花籠が私の前に運ばれる。作法をして花籠を持って立ち上がり、その立ち上がるのを確認して唄師が三句目を唱え出すのであるが、唄師の三句目が手順良くはじまったとき、突然お導師さまが禮盤に座ったまま私の方を振り返り、大声で
「散花は唄が終わってからじゃ!」
とどなられた。唄師の三句目の声が、私が散花を唱え出したと勘違いされたようである。唄師はお導師さまのそのどなり声を無視して唱えつづける
「散花は唄が終わってからと言うとるじゃろうか!」
と再びどなられた。あわてて係のものが説明にあがると、自分の勘違いであったことに気付かれ、正面に向き直り、何もなかったように法会は再開した。まわりを見渡すと動揺している人は誰一人としていない。何事もなかったように淡々と法会をすすめていく職衆の人々。私一人だけが、どなりつけられた後遺症で足の震えがますますひどくなり、おしっこをちびりりそうになった。うしろから先輩が励ましてくれる声が聞こえる
「今のはお導師さまの勘違いだからね。藤原君が間違ったのではないからね。落ち着いて、落ち着いて・・・」
しかし、胸のドキドキはおさまらなかった。いよいよ散花となり必死でお唱えした。大役を果たし終えたとき、緊張の糸がいっぺんに切れたような気がした。法会はその後二時間ほど続いたが、どのような法会であったのかは全く覚えていない。
このお導師さまをされていたのが、当時、学長をされていた中川善教前官であった。大声でどなられたことが強烈なインパクトがあり、“恐い人”というイメージが先行してしまい、その時は声明の大家であることなどまったく知る由もなかった。


中川善教前官との出会い
追悼法会に参加したということも影響したのであろう。井上先生から声明の点数を95点いただいた。そして、声明の上級クラスに進むように勧めていただいた。三宝院に帰り、住職に相談したところ、現在大学の声明上級クラスは中川前官が受け持っておられる。中川前官は声明の大家で滅多に教えていただけるチャンスがないから行きなさいと言われた。井上先生と住職の二人から勧められたので行くことになった。授業は一般の教室で行われるのではなく研究室で行われ、法衣を着けての受講であり、なんと受講するのは私を含めてたったの二名だけであった。一回目の授業で先生が教室に入ってこられた。
「やあ、どうも」
聞き覚えのある声であった。お顔を見た瞬間、追悼法会の折に私をどなり飛ばしたお導師さまであることに気がついた。
声明上級ということで、御影供表白・大般若表白を中心に習った。声明初級を一年間受けたとはいっても、一週間に一度の授業で、おまけに夏休み・冬休みがあるので実質は数十回の授業であった。そんなレベルの人間がいきなり表白を唱えることは無理があった。授業内容は、中川前官が一度唱えられてそのあと一人で反復するという方法をとり、何度も繰り返して失敗するとどなり飛ばされた。ややもすれば、
「きょうは無理じゃ」
と言って自坊に帰ってしまわれる始末である。何度も泣いたし、悔しい思いをした。また、テープ類の持込は絶対禁止であった。要するに、テープで録音すればそのテープに頼ってしまい
「いつでも聞ける」
という安心感がかえってマイナスになる。今覚えなければ、いつまでたっても覚えることができないという意味であろうか、それについてはうるさくおっしゃった。
そうこうしているうちに、一年が経ち、中川前官の厳しさの中にもやさしさというものも見えてきて、声明が好きになり始めていた。この頃から中川前官のご自坊である親王院を訪ねて個人的にご教示をいただくようになった。卒業したあとも通っていたが、当寺の先代が遷化し檀務が忙しくなったこともあり、しばらくの間途絶えた。


毎週月曜日と火曜日に来なさい
数年後、三宝院の住職のすすめもあり、再びご教示していただくご縁をいただいた。ご教示していただきたい旨を伝えたが、ご高齢であったということからか“間に合わない”ということで週に二度来なさいと言われた。月曜日・火曜日と一週間に二日間通うことになった。講式から習ったが、月曜日の午前五時に西宮の自坊を出発して午前八時から受け、その日は高野山に宿泊し、火曜日の午前八時から再び受ける。昼頃から高野山を下り、西宮に帰って檀務をする。次週の月曜日再び高野山へ・・・そういった過酷なスケジュールで約二年弱通い続けた。授業内容は相変わらず厳しいものであった。そんな中で、忘れられない思い出がひとつある。四座講式が終了した日、お膳を出していただいたのである。普段は厳しく指導されていても、その区切り区切りを大切に考えられる。厳しい教えの中に、弟子に対しての細かい心遣いを忘れない。昔からこういった配慮が伝統になっていると聞いた。
しかし、中川前官も年重ねるごとに弱られて、ついに教えることができなくなったということで床につかれてしまった。そして平成二年三月二十六日、八十四才にて遷化されたのである。残念なことであった・・・


中川前官なきあと
中川前官にはじめて南山進流声明を皆伝されたのは、私が最初に声明を習った井上光紹師である。ところが印信をわたされた翌年突如として遷化された。このことについて、中川前官は大変悲しんでおられた。その後、高野山総持院の宮田永明師と高野山在住の宮島基行師にわたしておられる。現在、中川前官の血脈を相伝されているのはこのお二人と聞いている。
中川前官が遷化されたあと、どうしても最後まで南山進流声明が聞きたく、相伝されている人にご依頼することになった。当時、宮田師は小豆島におられた関係もあり、以前より面識あった宮島師にお願いすることになった。
宮島師は自分の責任上、最初から教えるということで、平成二年秋から再び魚山集1ページ目からはじめた。檀務などの調整がうまくいかなかったりスケジュールがあわなかったりして、長い期間習えないときがあった。また平成七年に発生した震災の影響をまともに受けて、数年間途絶えてしまったこともあった。そんなことで、時間がかかってしまい現在やっと中川前官に習いかけた秘讃に入った。ちなみに今もなお高野山に通っている。


現在声明のテープなどが出版され、簡単に声明を聞けるようになった。参考にする程度ならばよいと思うが、基本的に声明の習得は面授によらなければならない。なぜならば、テープは一方通行で注意をしてくれないからである。平安時代や鎌倉時代に唱えられた声明が、そのままの音で現在に相伝されているかどうかはわからない。また音は聞く人の耳によっても違ってくる。同じ音を同時に二人が聞いたとしても、同じように聞こえているのか、またはそれを同じように発声できるのかといえば疑問である。自分がテープを聞いて、これでよしと思っても、間違った形で唱えているのが実際である。だから、面授でなければならないのである。師の沙汰が必要なのである。
今、先徳方が大切に守り、伝えられてきた声明に対しての並大抵ではない努力の大きさを振り返るとき、今日に至って軽く扱ってよいものであろうかと考える。その形がいかなるものにあろうとも、正しきものに習熟し、梵唄の妙に達するように努力することが必要であると思う。今後の益々の声明道の興隆を願う次第である。

平成14年春

平成15年9月24日  南山進流声明の伝授が終わりました。声明を習い始めて約25年かかりました。これですべてが終わったわけではなく、これから新たなことの始まりであると認識しました。恩師、中川善教先生に受けたご恩に対して、少しでも恩返しができればありがたいと思っております。今後ともよろしくお願い申し上げます。


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